デザイナー Shige アオキ   3

 

・独立

 

今思うと「とんでもないことをよくやれたなぁー。」と恐ろしくも思う。たったの300万円程しか持ち合わせがない、先が見えない、契約もない、保証もない、独立後の計画ゼロ、子供2人を抱えて、なんとかなるさの勢いだけ。この時38歳1995年に独立計画を実行した。

会社の名前は"More Design"、もっともっと良いデザイン!というメッセージを持ってスタートだった。しかし、起業するまでの綿密な計画を持ってはいたが、その後の受注する計画、営業戦略がなかったため、最初の2年間はたいへん苦しんだ。仕事場は小田原の自宅近くのマンションを借りていた。More Design のメンバーといえば、妻と二人。経理、営業、事務仕事、デザイナーを当然ながら兼務。毎朝、新聞を隅々まで目を通し、製品開発に関係する記事をマーキングし、営業電話をしまくるという日常。記事が少ないときは`四季報`を見ながら また電話を。午後になると、会社PRの為のカタログ(作品集)の制作。そして都心に出ての営業回り。帰宅して夕食後からは受注したプロジェクトのデザインワークタイムとなる。そうした毎日が懐かしい。平日は、クリエイティブな時間が中々取れないため、集中できる土日はフルに働いていた。仕事は当然ながら何でもこなす必要があり、ときには看板の依頼も引き受けたこともあった。
そうした3年間、正直言って、翌月の子どもの学費、家賃、食費の3つが気になり頭から離れることはなかった。妻の前で発する言葉「あと何日生きれるかなぁー?」。
今思えば、「サラリーマンとしか結婚したくない!」と言っていた妻を裏切ったことになり、大いに反省している。しかし、その時はハラハラ、ドキドキ、毎日が苦しかったわけだが、自分には、生きがい、やりがいは大いにあり「いつか必ず事業を軌道にのせてやる!」”と心に強く思った。
ある日、夕焼けを眺めているときに涙が止まらなくなったことがある。それは眺めていた夜景の視界のなかに家々の灯が目に入ってきたのです。自宅の電燈を最小限に抑え暮らしていたこともあり、多くの人も皆頑張っているのだなぁと眼に映った。「我が家の灯を閉ざしてはまずい。頑張って死ぬ気でもっとやらねば!」と心に誓ったことを今でも忘れられない。初心の気持ちを忘れず思い出すたびに今でも涙が。
この時期、妻は洋裁という技術を持っていたこともあり小銭稼ぎではあったが彼女の強い協力に支えられていた気がする。そしてすべてを失いかけたころ軍資金は底をついていた。
そしてしばらくしてのことであった、運よく営業の仕掛けをしていた大手企業から声がかかり、数か月寿命が延びた。

 

そうした繰り返しがしばらく続いたのち、共同経営者となる人物と巡り合うことになり彼の仕事との成り行きで、一緒に東京で事業をする事となった。 会社の名は"Mic & More"、相手方の社名と合わせた会社名とした。そして年毎に胃も心も強くなり、いつしかクライアン数と社員がそれなりに増えていった。
相棒はトイ・メーカー出身のデザイナーで ユニークでバイタリティある人物だった。彼の`トイ`(遊びのツール)と、TI社での `エデュケーショナルプロダクト`(教育ツール)のデザイン経験が融合したかたちのいい感じのチームとなった。
トイ業界での仕事の進め方は、教育プロセスのイロハ以外に、子供や親の立場、視点になりきることでより良いプロダクト・アイディアが出てくるという大変奥の深い仕事でもあった。 ということは、デザイナーは純粋な子供心を忘れず持ち合わせていないと良いアイディアが出難いと感じることが多々あった。もちろん基本は親が買い与えるモノ、ツールではあるが、親の望むところと子供が喜んで飛びつき、遊びの行為を繰り返したくなるかどうかがカギとなる。子供の心をくすぐり、オドロキのような仕掛けがないと飽きられてしまうのである。こうした状況でのモノづくりの大事さを、この分野のデザイン体験で、また違った多くのことを学んだ。
 

共同経営していた会社が四年後に志のフイッチで互いにまたそれぞれが自分の会社を持つことになった。Mic氏からは生き抜く力のようなものを得た気がする。そして思い出すたびに彼との出会いに感謝している。
 

そして、現在のaoki design社が2003年の設立となる。
  

いつかは と想っていた時が 以外にも早くに!

More Design時代