デザイナー Shige アオキ    1

いつのことだったかまだ若い頃、「還暦を迎えるころまでは現役のクリエイターとして、デザインのプロとして貢献していたいな。」と想っていたことを思い出す。それから何十年、そういう年になった今、まだデザイナーとしての役割を果たさねばと思う。
それは、納得できるデザインがなかなか出来ないと感じ、デザイン業として、プロとしての深さのようなものがあるからであろう。
そこで、この辺で、一つの記録として人生を振り返り書きとめておこうかと。

  1. 幼少の頃
  2. デザイン学生から就職、そして転職
  3. 独立
  4. aoki design社 設立

という括りで記していくことにする。

 

・幼少の頃

自分は東京の目黒区で三男として生まれた。長男は早くして亡くなり顔を見ることはなかった。父親を含めて男4人と母、そして母の両親含めて7人という家族構成。実家は生活用品を販売していた雑貨屋で小売問屋でもあった。毎朝学校へ行く前に商業車に多くの商品を積み込む父の仕事を手伝うことが3人兄弟の日課だった。生活に使う小さな物から大きなものまで数多くの生活ツールが目に焼きつき、商品の名も覚えた。しかし残念ながら家ではキッチンに男が立つ事や女性の仕事を手伝うこともなかったのでそうした用品を使うことはなかった。勿論 想像はできたが。この色々なツールを幼少の頃に見ていたことが将来家電のデザインをするうえで大いに役に立った。

 

思い起こせば、園児のころから高校のころまで絵の展覧会にはいつも大賞か金、銀賞をとることが当たり前であり愚作の場合でも入選はしていた。記憶にあるのは小学校6年の担任の先生からの助言で 世の中にはデザインと言う職業があるので君はそういった世界に進んだ方が良いとの話をもらった。しかし自分はその頃画家になりたかったが楽な道ではないと先生や親からも反対され、「将来デザイナーになる!」とこの時決心した気がする。記憶は薄いが12歳の頃までの学校へ通う目的は、図工が学べる、給食にありつける、体育で面白い運動ができる、そして毎日の喧嘩であった。そういえば、包帯か絆創膏が身体のどこかに必ず付いていたことを覚えている。そして家に戻れば原っぱのどこかに5‐6人連れているガキ大将を探し出し、そばに行き大将がやること何でも真似したものである。年齢は5つほどひらいていたと思う。年功序列の世界がきちんと守られた遊びの世界であった。昭和30年時代はそうした環境だったので上下関係は低学年のころから身についていた。外遊びと言えば凧、写真たん、メンコ、コマ、ベーゴマ、チェーリング、ビー玉、ビーズ、おはじき、竹馬、缶けり、型抜き、まだまだあった気がする。おやつは家の手伝いでもらった小銭で駄菓子屋、おでんや、紙芝居と、昭和の時代はなんて素晴らしい天国のような時代であったと懐かしく思う。
 

思えば 結構 早いころからデザイナーになりたいと。

デザイナーShige アオキ

1.幼少の頃
2.就職、そして転職
3.独立
4.aoki design社 設立

幼少の頃